今は無き丸井の思い出 丸井郡山店

東日本大震災によって大規模半壊の認定を受けビルの解体をした旧丸井跡であるが、先日起工式が行われようやく新ビルの着工が始まるようだ。以下に新聞報道を引用する。

旧丸井跡地「複合ビル」着工 16年秋の開業目指す(福島民友 2015年4月25日)
 郡山市のJR郡山駅前で2008(平成20)年に閉店した旧丸井郡山店の跡地に複合商業施設を建設する大和ハウス工業は24日、現地で起工式を行った。ビジネスホテル「ダイワロイネットホテル郡山」を中核とした施設で、来年秋の開業を目指す。
 同ホテルは、大和ハウス工業グループのダイワロイヤルが全国展開し、県内初進出となる。鉄骨地上13階、地下1階で、総工費は30億~40億円。計画では1~3階は物販・飲食・サービスなどの店舗が入居、4階以上がホテルで、客室数216室を予定している。
 式には、大和ハウス工業や地元各団体の関係者ら約30人が出席した。神事では、渡辺靖彦大和ハウス工業福島支社長、関和夫三菱UFJリース常務がくわ入れし、工事の安全を祈願した。ダイワロイヤルの原田健社長は「郡山の玄関口のホテルとして地域に貢献し、最高の相乗効果を発揮して皆さんに愛される施設にしたい」とあいさつ。品川萬里市長が祝辞を述べた。


ビルを解体後、跡地にはホテルが建つとの報道があったが何故か囲いがされたまま1年近く放置されているような状況だったのでもしや計画が頓挫でもしてしまったのかと心配していたが、実は地下構造物を解体をしていて(つまり地上部分は大規模半壊で倒壊の恐れありと言う事で国の事業で解体したが、地下についてはその恐れは無いから自分達で解体しなさいと言う事)、計画そのものは進んでおり心配は僕の杞憂ですんだようだ。そこで今回は過去の思い出となった丸井について綴ってみたいと思う。

地下構造物を解体中の丸井跡 ビッグアイより見下ろす(2015年1月) 
marui_tika_kaitai.jpg

郡山における丸井の歴史は1975年(昭和50年)駅前へ進出してきた事に始まる。余談だがこの年は西友(業態は西武)やダイエーも進出してきた。今ではファッションビルのイメージが強い丸井だが、当時は月賦百貨店という業態で「赤いカードのクレジット」のコピー通り商品購入の際、普通に現金でも買えるのだが分割払いが出来るのが最大ウリだった。というよりむしろ分割払いを進められる位だった(その分の利息も取れるから)。今では分割払いなど珍しくもなんとも無いが、その頃はまだまだクレジットにはネガティブなイメージ付きまとっていた時代だったものの、先立つものが無くても商品は先渡し、しかし代金は後から分割でというクレジットの仕組みを世の中に受け入れさせた丸井の功績は大きかったとされている。
実は我が家でも当時丸井にお世話になっていてソニーのトリニトロンを月賦で購入し(正確な言葉だが月賦という表現が時代を感じさせる)、その支払いにもう亡くなった親父はまだ小さかった僕を(子守のついでだったのだろうが)丸井によく連れていった様で「お前は丸井のエレベーターのボタンを押すのが大好きだったんだ」とよくいっていたのを思い出す。西武やうすいと違い丸井にはエレベーターガールが居らず自分で操作できたのだ(エレベーターガールというのもこれまた時代を感じさせてしまう)。
さらにもう少し時が経ち小学生になった頃といえば、やはり最上階にあった森永レストランの事が思い出される。特に窓側の席に座れば郡山駅を一望でき、そこからタクシープールを見下ろして順列送りで出たり入ったりするタクシーを眺めているのが子供ながらに好きだった記憶がある。ちなみに昭和の時代は郡山に限らず、どこの丸井にも基本的に森永レストランが出店していたとの事だ。

その後バブル景気が訪れDCブランドブームの波に乗り、それらブランドを大量に導入した頃から今のファッションビルのイメージが定着したのだろうと思われる。この頃の僕は中学・高校の頃だったから、金の無い中高生には丸井と縁が無かった時期で業態の変わり目を見ることが出来なかったのが今となっては少々残念なところではある。

そして僕が社会人となり働き始めた頃になるとうすいの記事にも書いたとおりバブル崩壊の不景気とも重なって既に郡山駅前の衰退が始まっていた。1994年ダイエー(トポス)が撤退し、2000年西友も駅前の西武をたたんでザ・モールとして長者に移転、さらに新店舗での営業を開始したうすいは2003年に産業再生機構の支援第一号案件になるなど駅前の地盤沈下が顕著になるさなか、丸井は怯むことなく孤軍奮闘し衰退する郡山駅前において集客装置としての機能を存分に果たしてくれた。例えば、新年初売りの福袋目当ての行列ももちろん凄かったが、夏のスパークリングセールの時も、Ati前の交番がある横断歩道の信号待ちの間に人がどんどん溜まってきて、信号が青になると同時に横断歩道を渡り終えた人の列が丸井へなだれ込んで行く様子は圧巻で、正に人を飲み込む集客装置といえた。バブル崩壊以降は売上げが減少傾向にあったとの事だがまだまだその集客力は健在だったのである。
又、リニューアルしたうすいに対して丸井は、本来ライバル店であるうすいへエールを送る内容の垂れ幕を掲げる※など中々心憎い事もしてくれて、一緒に中心市街地を盛り上げようともしてくれたのだ。

※ここに写真が有りました。 こおりやま 緑の街角 丸井の撤退に思う

しかし、2007年2月丸井は突然郡山店閉店の方針を打ち出す。1991年に89億円あった売上げが年々減少し70億程度にまで下がっているというのがその理由だ。しかしこの発表に対し市や地元経済界及び地権者の動きは鈍かった。大して慰留のための工作をするわけでもなく、閉めるというのだからしょうがないよなとばかりにみすみす逃した感じなのである。
例えば秋田市では、2005年に秋田駅前のイトーヨーカドーの撤退騒動があった。その時秋田では市長は無論のこと県知事までもが自らイトーヨーカドー本社に出向き、賃料等の優遇をする事でどうにか撤退を翻意させているのに対し(その後、結局は2010年に撤退してしまったが…)、郡山では市長や商工会議所が翻意のために動いたなどとは聞こえてこなかったし、それどころか一部の地権者は丸井撤退後丸井に対し訴訟を起こす有様で、丸井からすればなんという仕打ちなのだと思えたことだろう。(ただこの訴訟はその内容がどうも断片的な報道しかなされず、詳細が不明であると言う事だけは断っておく。)

この丸井郡山店の閉店発表について僕の勝手な解釈をすると、売上げも落ちてきているので賃料を下げてくれないかという丸井側からのサインだったのではないかと思っている。それは、丸井水戸店を見てみるとそう思えなくもないフシがあるからだ。丸井郡山店の閉店後、次はやはり売上げが郡山と同程度の丸井水戸店が危ないと囁かれ続けた。そして2013年MYM(マイム:丸井水戸店が入っているビル)開業時から20年の貸借契約の満了が訪れる。
丸井水戸店の売上げを見てみると2008年は69億円だがここ数年は40数億円程度まで落ち込んでおり(参考までに直近の2014年は34億円)郡山店閉店時の70億を大幅に下回っていて、ここで丸井は契約を更新しないつまり水戸店閉店という選択肢もありえた筈だが、MYMを管理する水戸都市開発が賃料を棒引きするカタチでの5年の契約延長どうにか決めた事から上述のサインだったと想像できるのだ。水戸都市開発とすれば当然郡山の丸井閉店後、空きビルのままになっている惨状が頭にあって丸井の残留は死守だったのだろうし、賃料棒引きを受けて契約更新を決めた丸井水戸店は売上げが低迷してはいるものの今のところ営業を継続しているのだ。

閉店発表の1年後、結局丸井は当初の予定通り2008年2月29日をもって郡山店を閉店する。丸井の去った郡山駅前共同ビルは後継テナントも決まらず結局東日本大震災による損傷をうけて解体となるまで放置され続けたがそれは当然といえば当然で、そもそもダイエー、西友そして丸井と撤退し、地元百貨店のうすいが瀕死となる地方の中心市街地などに誰が好き好んで進出するものかと考えるまでも無く分かる事だし、よしんば進出したい企業があったとしてもテナントに対し訴訟を起こす等、企業経営のリスクになる様な地権者のいるビルなどに入りたい筈もないだろう。

では丸井をどうにか翻意させ、営業を続けていれば良かったのかと言われればそれは分からない。丸井閉店後リーマンショックが勃発し、東日本大震災の発生等自粛ムードが広がる等経済的な影響に加えて、都市間競争にネット通販やアウトレットの伸長など時代の変化にも見舞われているから結局は撤退という憂き目に遭ったのかもしれない。しかしそれでも5年もの間空きビルだった事の損失は大きかったのは間違いない事で、丸井閉店後郡山駅前の人通りが激減した事がそれを証明している。

ここで一つ苦言を呈するなら市や商工会議所そして駅前の地権者等々は、郡山市の中心市街地がおかれている現状というのをあらためて認識しなおしたほうがいい。それは冒頭に書いたように昭和50年丸井と共に西友やダイエーが一気に進出してくるなど、当時の夢のような盲想が頭の中に染み付いている事に加え、さらに東北2位の都市(本当に2位かもアヤしい)などというどうでもいいプライドにあぐらをかいていたとしか思えないような動きの鈍さなどを改めなければならないと言う事だ。所詮は地方の中心市街地に過ぎない郡山駅前ではあるが、しかしどうすれば企業が進出したくなるのだろうかと1から考えていかなければならないだろう。
引用記事の通り幸い跡地利用が決まり新しいビルの建設が始まるが、それとて震災によってたまたま旧丸井跡のビルを国の金で壊すことが出来たからに過ぎず、震災が無ければおそらくダイエーの二の舞になっていたのは想像に難くないのである。

いよいよ工事が始まった丸井跡。この横断歩道を渡り人が丸井へなだれ込んでいく様はもう見ることができない。
marui_ato2.jpg

1975年に進出し、2008年2月29に撤退した丸井。32年という年月の中で時代の流れと共に変化を重ね、僕の幼い頃の記憶とは全く違う店舗になっていたが、東北に唯一存在する北限の丸井として郡山市民の自尊心を大いに保つとともにw、長きに渡り郡山駅前の集客を担って来たことには違いない。既に解体も終わり丸井はもはや記憶の中だけに残るのみで粘着接客も今は昔の事となったが、ふと部屋にある丸井で買っただいぶくたびれたバックを(閉店発表の年に買ったからもう7年になる)見るとこんなことを思うのだ。

さて最後に跡地に建設されるビルにはホテルの他、一部商業フロアも併設されるが果たしてどのようなものになるだろうか?あくまでホテルがメインだから小規模なものになる様だがここは一つしっかりと検討してもらい、S-PAL、Ati、MOLTIにも引けをとらない様な小粒ながらも郡山駅前でキラリと光る商業施設となることを願ってやまないのである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

あさか野

Author:あさか野
郡山の行く末を思案するロスジェネ世代の郡山市民

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR