変化こそが存続のカギ Ati郡山

郡山駅西口の南側に位置する商業ビル。東邦精麦改め、現TOHOピクス株式会社が所有し現在はATi郡山として営業している。元々西友が西武業態で営業していたものだが、2000年に西友がザ・モール郡山として市内長者に移転し撤退した事から、ファッションビル業態に転換。その後、東日本大震災よる損傷を受けるものの、半年の休業中に修復を行いヨドバシカメラを誘致するなどして今に至る。
以前うすい丸井の記事にも書いた通り、撤退が相次いだ郡山の中心市街地において曲がりなりにも営業を続け西友時代から通算すると今年で40年となるが、同時期に建てられたが取り壊されるダイエー跡や新しくホテルが建設される丸井跡との明暗を分けたのは何だったのか考えてみたい。

昭和50年に営業を開始し今年で40年目になる
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その始まりは東邦精麦(当時)が、昭和50年郡山駅前一丁目の再開発事業として東邦精麦駅前ビルを建設し、そのテナントとして西友を引っ張って来た事に由来する。なぜ東邦精麦が駅前の一等地にこれだけのまとまった土地を所有できたのかは定かではないが(売却される前のダイエー跡や丸井跡、ビッグiには複数の地権者が存在する)、しかし単独企業がこの土地建物を所有していた事が後々プラスに作用する。

郡山に進出した西友は翌年業態を西武に変更するが、この業態変更は大いに当たったといえる。西友が地方都市の駅前に進出した店舗を「なんちゃって西武」としたものは郡山以外にも複数存在していて、セゾングループ内でのポジショニングは西武百貨店とGMSの間を狙ったものであったようだが、しかし郡山西武においてはそんな細かい事は何ら問題とはならず充分に高級な百貨店として認識された。
当時のデパートには良好なブランドイメージが相当に存在していて、さらに建屋にガラス張りのエレベーターを備えた郡山西武は外観からして先進的かつ都会的に見えたもので、地場資本で庶民的なうすいとではそのブランドイメージは歴然とした差があった。郡山では(このなんちゃって西武でも)「西武は高い!」とよく言われたものが、しかしそれは高級感との裏返しでもあるから、贈答の品物には田中一光作である青と緑の二重丸が描かれた西武の包装紙は絶大な威力を発揮し、送り主の自尊心と見栄とプライドを存分に満足させるものだったのだ。

また、この業態変更は郡山駅前に同じ昭和50年、ダイエーが大町に進出しており西友にとってみればGMSの雄であるダイエーとGMS業態で正面からブツかるよりも、百貨店業態として差別化を図るほうが得策だったと言う事もあったのだろう。郡山においてダイエーと激突したのは地元百貨店のうすいであり、その事からもうすいのポジショニングを伺い知る事が出来る。
ちなみに我が家といえば全く持って庶民的であり裕福な訳でもなかったから買い物は専ら「うすい派」であった為、残念ながら僕には西武の思い出はあんまりないのであるw。

当時はガラス張りのエレベーターが先進的だったが
今はガラスにフィルムを張ったのかあまり目立たなくなっている
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その郡山西武もバブル期には170億円と隣にあった丸井郡山店の倍以上の売り上げを誇る程だったが、ご多聞に漏れずバブル崩壊後の消費不況により1999年には赤字に陥いったこと、また西友本体が多額の不良債権を抱え揺れていたこと、またこの西友が運営するなんちゃって西武をLIVINに転換する政策を実施していたこともあり、市内長者にザ・モール郡山として移転する目途が立ったことから2000年10月15日をもって郡山西武を閉店することとなる。

西友郡山西武店が去った東邦精麦駅前ビルであるが、ダイエー跡や丸井跡と違ったのはすぐさま業態をファッションビルへと転換しAti郡山として営業を開始した事だ。ダイエー郡山店が閉店したのはバブル崩壊後の1994年、西友郡山西武店は失われた10年のさなかの2000年、そして丸井郡山店はリーマンショック勃発直前の2008年である。これらの時期を比べてみてもどの時期も経済状況が悪く後継テナントを見つけるのは厳しい状況だったといえるが、ダイエー跡や丸井跡と異なり見事Atiを開業させた。
とはいえそのような状況の中での開業だったこともあったのだろうファッションビルとしてAtiを見れば、なんとなく微妙な感じがしないでもないし僕にとってみればあまり目ぼしいものがある店ではなかったが、しかし福島県初出店となるタワレコやABCマートにスタバなども入っていたし、若者をターゲットとしたそれなりの商業施設ではあったと思う。それに何よりも空きビルとして放置されることなく多少微妙で有ったとはいえ業態転換を成し遂げて営業を続けたのは賞賛に値すると言えるだろう。

幸いだったのは西友という会社が意外と面倒見のいい会社だったことだ。ただ単に貸借契約が残っていて違約金を払いたくなかったからなのかは分からないが、Atiの運営は西友が行っていたようで後継のテナントを見繕って手当てしたり、Ati郡山開業当初は地下食品売り場に西友自らスーパーマーケットとして出店してもくれたのだ。普通で有れば違約金を払ってでも完全に撤退してもおかしくないからだ。

ファッションビルとして再出発し10年が経った2010年11月、東邦精麦は当時新幹線の高架下にあったヨドバシカメラをAtiに誘致するなどとしたリニューアルプランを発表する。これは西友との契約満了をもってと言う事だから、それまでAtiの運営は西友に依存していたといえるが、しかしその10年間に東邦精麦はテナントビルの運営に関し大いに学ぶことができたのだろう。アパレルをある程度諦めヨドバシを誘致するなどは中々の見識である。店舗を見ればわざわざヨドバシ専用のエレベーターを2基も増設するなどヨドバシ誘致にあたり相当譲歩したフシもみてとれるがしかしそれは些細なことに過ぎないだろう。家電業界で奢れるものは久しからずの状態で大量閉店に見舞われているヤマダではなく、なんといっても勝ち組とされているヨドバシを引っ張てこれたのだ。それにここ数年アパレル業界は惨憺たる状況でメンズはブランドを問わず整理されている傾向だし、ワールドは大幅縮小でイトキンなどは虫の息の状態だから今のところその戦略は見事当たったと言える。東邦精麦には社会情勢や商圏の各種要因から自社ビルのテナントには何が必要であるかを見極める眼力が備わってきたといえるのではないだろうか。

西武や丸井に代わりヨドバシが郡山市民の自尊心を支えるw
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さてここまでくればお分かりだと思う。つまりAtiが存続出来たカギは時代や社会情勢の変化に対して適合し、かつ変化を厭わず前進を続けた事だ。さらに加えて変化する為の意思決定を即座に下した事である。これが冒頭に書いたとおりこの土地建物の所有者が東邦精麦という一企業だった事がプラスに働いた。つまり決断が遅れてしまうと機会を損失するばかりか業績までもが悪化し会社が傾いてしまうことにもなりかねないゆえ、速やかに実行できたと言う事だろう。
対するダイエー跡や丸井跡がどうだったかといえば僕の勝手な想像に過ぎないが、複数の地権者が存在する事から誰か一人でも反対するなどで速やかな意思決定どころか空中分解してしまっていたのだろう事は想像に難くなく、跡地利用の解決までに相当の年月を要してしまった。さらに社会情勢の変化も鑑みず後継テナントには、ビルまるごと全フロアを一括で借り上げてくれるようなテナント誘致にこだわったようなことがあったのではないか。しかしそんなテナントはついぞ現れなかったと言う事だろう。

西友に始まった店が西武に代わりそしてファッショビルへ。さらに大幅なリニューアルを実施しヨドバシが入るなどして来たAti。しかし栄枯盛衰は世の常であるから、これとていつまで続くかは神のみぞ知るといったところだろう。しかしこれからもAtiには時代とともに次々と変化を続け、末永く郡山駅前で事業を続けてもらうことを願うものである。
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Author:あさか野
郡山の行く末を思案するロスジェネ世代の郡山市民

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